公明党
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| 代表 | 太田昭宏 |
|---|---|
| 幹事長 | 北側一雄 |
| 成立年月日 | 1964年11月17日 |
| 本部所在地 | 東京都新宿区南元町17 |
| 衆議院議員 | 31 /480 (2006年1月20現在) |
| 参議院議員 | 21 /242 (2007年10月31日現在) |
| 党員・党友数 | 426,837 (2006年政治資金収支報告書) |
| 政党交付金 | 約28億5,800万円 (2006年現在) |
| 政治的思想・立場 | 中道主義、保守中道 |
| ウェブサイト | 公明党ホームページ |
公明党(こうめいとう、略称:公明、NEW KOMEITO、"NK"またはNew Clean Government Party、"NCGP")は、日本の政党。
日蓮正宗系の新宗教団体である「創価学会」を主な支持母体としている。
- 1994年、12月5日 「公明党」を解散し、「公明新党」(衆議院議員と1995年改選期の参議院議員)と「公明」(1998年改選期の参議院議員と地方議員)に分党。同年12月10日、公明新党は新に結党された新進党へ合流。「公明」はそのまま存続。
- 第2期:1998年11月7日 ‐
- 1998年、新進党の解散に伴い、旧公明党系の「新党平和」・「黎明クラブ」・「公明」が合流し、「公明党」を再結成。英字名称はNEW KOMEITOとなった。
目次 |
概要
創価学会第2代会長の戸田城聖が創価学会の政界進出を目指し、1955年 の統一地方選挙や、翌1956年の参議院選挙で創価学会信者を当選させる[3]。1962年には衆議院に進出するため、政党「公明政治連盟」を設立する。戸田の後を継いだ、創価学会第3代会長(当時)の池田大作が、1964年に「公明政治連盟」を改組して「公明党」を設立。結党当時は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた。
1970年に、創価学会と公明党が自らを批判する書籍の出版・流通を阻止するために働きかけていた(「言論出版妨害事件」)ことが公になり、「言論の自由」を侵すものだとして社会的批判を受けた。この問題の中で、創価学会と公明党との密接な関係が憲法に規定された「政教分離原則」に反するという批判が強くなり国会でも議論されるようになった。国会での追及が高まる中、池田大作が公明党と創価学会を制度的に明確に分離することを明言し、「日蓮正宗の国教化」と誤解されやすい「国立戒壇」という表現は将来ともに使わないこと、「国立戒壇」を国会で議決することを目標にしないことなどを約束し、党の綱領から「王仏冥合」、「仏法民主主義」などの仏教用語を削減するなど、宗教色を控える方針転換を図った。
これ以降、自民党と社会党の2大政党がしのぎを削っていた「55年体制」の中にあって、保守でも革新でもない「中道路線」の立場で、福祉と平和を最重要の政策とし、大衆のための政治をアピールする。1973年以降、社公民を軸とする「反自民」の「中道革新連合政権構想」を提唱したが、1970年代後半に、地方の首長選では自公民の選挙協力を取るようになる。1979年12月には支持母体である創価学会が長らく対立を続けてきた「日本共産党」との間で相互不干渉を約束する、いわゆる「創共十年協定」を結ぶが、党内の反発が強くなり、1年ほどで死文化してしまう。以降は共産党に対する批判は続いている[4]。
長らく中道路線を取ってきたが、1990年代には政策面で保守に近づき、自衛隊の海外派遣を認める「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)制定に賛成して外交政策を転換した。
1993年には、38年間続いた自民党支配を打ち破った非自民の細川連立政権に参加し、結党以来初めて与党の側につき、郵政大臣、労働大臣、総務庁長官、環境庁長官などの国務大臣のポストを得る。 1995年の「宗教法人法」改正をめぐり、創価学会の池田名誉会長を参考人招致を決議しようとする自民党に対し、国会でピケを張り、座り込みなどの実力行使で阻止した騒動は、池田名誉会長の政治的影響力の大きさを改めて感じさせるものとなった。1999年からは単独で過半数を得ることが困難になった自民党(小渕内閣)の要請を受け、連立に参加する。その後も森内閣、小泉内閣、安倍内閣、福田内閣との連立を続けて来ている。
かねてから護憲の立場の「平和の党」、庶民の立場に立つ「福祉の党」を自称しアピールして来たが、少なくない障害者関係団体が反対する中で、障害者自立支援法や医療制度改革、自衛隊イラク派遣などを自民党と共に進めたことに対しては支持者の中にも批判の声がある。また、選挙期間における創価学会信者の熱心な選挙活動や投票依頼などもあり、「政教一致」問題に対しては依然として根強い批判がある。しかし、無党派層が増え、政党の支持基盤の弱まっている中で、支持母体である創価学会による安定した固定票を持つ公明党は、政権を左右するキャスティング・ボートを握っていると言われる[1]。 現在の党のキャッチコピーは「未来に責任を持つ政治」である。
沿革
- 7月 第4回参議院議員通常選挙で3名が当選。
- 8月 戸田会長が創価学会機関紙『大白蓮華』63号に「王仏冥合論」を執筆し、創価学会の政治進出を理論づける[5]。
- 6月27日 大阪府警が参議院大阪地方区の補欠選挙における公職選挙法違反の疑いで創価学会本部の理事長・小泉隆を逮捕。同年7月4日には創価学会の渉外部長であった池田大作が信者に戸別訪問を指示した疑いで逮捕され、起訴される。(「大阪事件、関わった創価学会信者は公民権停止や罰金が言い渡されたが、小泉・池田の両名は無罪となった)
- 6月 第5回参議院議員通常選挙の際、創価学会の総務(当時)の池田大作は、選挙の目的が「国立戒壇」建立のためであることを創価学会信者たちに強調[9]。この選挙で6人の候補全員が当選し、参議院の総議席数は9議席に。
- 7月 第6回参議院議員通常選挙において9人の候補全員が当選。参議院の総議席数は前回より6議席増の15議席になったことで院内交渉団体の資格を得る[10]。自民党、社会党に次ぐ第三党となる。
- 11月17日 池田大作が、「公明政治連盟」を改組し、「公明党」を設立。結党宣言は、「公明党は、王仏冥合・仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、(中略)大衆福祉の実現をはかるものである」。[11](この結党時において、参議院では15議席、地方議会には1200余人の議員を有していた)。
- 池田会長が『政治と宗教』(鳳書院)を出版。「王仏冥合」の理念をベースした政治論を訴える[5]。
- 7月4日 第7回参議院議員通常選挙において14人の候補中、11人が当選し、参議院の総議席数は前回より5議席増の20議席に。
- 7月 和泉覚が参議院法務委員長に就任し、公明党所属議員初の国会委員長になる。
- 委員長に竹入義勝、書記長に矢野絢也が就任[5]。
- 衆議院選挙直前に、池田会長が「憲法擁護」、「大衆福祉」、「安保の段階的解消」などを含む公明党の方針を公表[5]。
- 1月 第31回衆議院議員総選挙で一挙に25議席を獲得し、衆議院に初進出。その後の党人事で竹入義勝委員長と矢野絢也書記長となり、党の比重は参議院から衆議院に移る。
- 12月 「言論出版妨害事件」を巡り、「政教一致」に対する社会的批判を受ける。
- 12月27日 第32回衆議院議員総選挙では47議席を獲得し、民社党(31議席)を抜き、日本社会党(90議席)に次ぐ野党第2党に躍進する。
- 5月3日 日本大学講堂(旧両国国技館)における創価学会第33回本部総会において池田会長が「言論出版妨害事件」について謝罪。「国立戒壇」の教義の撤回、創価学会と公明党の役職の分離などを表明[5]。
- 矢野絢也書記長が社会党の江田三郎書記長と民社党の佐々木良作書記長らと共に、社公民連合政権構想による『新しい日本を作る会』を結成。
- 6月27日 第9回参議院議員通常選挙において10人の候補中、10人が当選し、参議院の総議席数は前回により3議席増の23議席に。
- 第一次訪中団を派遣[5]。
- 1974年
- 第10回参議院議員通常選挙において45人の候補中、14人が当選し、参議院の総議席数は前回により1議席増の24議席に。
- 10月 創価学会と日本共産党の間で「創共協定」が締結される。
- 7月 公表された「創共協定」に異を唱える。
- 民社党との公民連合政権構想に合意。
- 10月の衆院選において、「日本社会党」、「民社党」、「連合の会」、新自由クラブの4党と選挙協力し、自民党を過半数割れに追い込む。
- 12月 民社党と「中道連合政権構想」で合意[5]。
- 1月 社会党と「連合政権構想」で合意[5]。
- 6月22ひ 第12回参議院議員通常選挙において14人の候補中、12人が当選し、参議院の総議席数は前回により2議席増の26議席に。
- 12月 「日米安保存続」と「自衛隊の条件付合憲」に政策転換[5]。
- 6月22日 第13回参議院議員通常選挙において23人の候補中、14人が当選し、参議院の総議席数は前回により11議席増の37議席に。
- 7月6日 第14回参議院議員通常選挙において21人の候補中、10人が当選し、参議院の総議席数は前回により11議席増の24議席に。
- 12月 委員長に矢野絢也、書記長に大久保直彦が就任[5]。
- 4月 「4野党連合政権協議」を凍結[5]。
- 2月 湾岸戦争に対する90億ドルの追加支援に賛成[5]。
- 4月 1991年東京都知事選挙において、自民党に相乗りし、NHKのニュースキャスター、磯村尚徳を擁立するが、自民党都連が推した現職の鈴木俊一に敗れる[5]。
- 6月 PKO協力法成立に協力[5]。
- 7月 第16回参議院議員通常選挙において一部の選挙区で初めて自民党と選挙協力を行なう。
- 8月 細川護熙内閣の非自民連立政権に4人が入閣。
- 6月 村山内閣の成立により、野党に転落。
- 12月4日 参議院特別委員会に創価学会第5代会長の秋谷栄之助が参考人として出席。「政治に大衆の声を反映していく政治の実現を願って公明党の支援をして来た」、「政党が政権を目指すというのは当然のこと」、「政治によって何か利益を得るとか政治の力を借りて布教をするとか、自分達の宗教を国教化しようなどということは毛頭考えていない」などと述べる。[13]
- 12月5日 「公明党」を解散し、「公明新党」と「公明」に分党。
- 12月10日 公明新党が新進党へ合流。
- 1月18日 自民党が運動方針の中に、「いま、わが国の政治にとって最も憂うべきは、宗教団体・創価学会が新進党という政党の皮をかぶって国民を欺き、政治の権力を握ろうと画策していることである」という内容を盛り込む[14]。
- 5月 公明党議員らが新進党内に党内グループ「公友会」を設立[15]
- 北朝鮮の金正日の総書記就任に対し、藤井富雄公明代表が「故金日成閣下の魂を継承され、金正日閣下の指導体制の下でのご繁栄が、極東アジアひいては国際の平和と安寧に寄与されんことを願います」との祝電を送る。
- 7月12日 第18回参議院議員通常選挙において9人の候補が当選し、議席数は前回と同数の22議席に。
- 7月30日 首班指名選挙において、民主党代表、菅直人に投票。
- 11月7日 「公明」と「新党平和」が合流し、「公明党」を再結成。
- 4月5日 自由民主党、保守党と連立政権を組む。
- 11月 第43回衆議院議員総選挙で初の「マニフェスト」を発表。
- 6月19日 20年前に、党の資金を横領して妻に指輪を購入したとして、竹入義勝元委員長に対し、550万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴。
- 9月22日 首相就任直前の安倍晋三が池田大作名誉会長と極秘裏に東京都内の創価学会の施設で会談し、次回の参院選での公明党や創価学会の協力を要請し、池田は協力を約束したと主要新聞(『産経新聞』を除く)を初め各種メディア[16]が報道。[17]
[18] - 9月30日 第6回公明党全国大会において、新公明党代表に太田昭宏、新幹事長に北側一雄が就任。新宣言を発表。[19]来賓として出席した安倍晋三は公明党の支援に謝意を示し、祖父の岸信介と父の安倍晋太郎の時代からの公明党との深い交友関係について言及し、自身が連立を率いていく立場になったことについて、「何か特別な運命を感じている」と述べる。
- 2月9日 公費を使って海外を視察した公明党福岡市議団が、大半の文章をウェブサイトから盗作して視察報告書を作成し提出していたことが発覚[20]、公明党福岡市議団は報告書を翌月再提出し公費負担の視察の自粛を表明。
- 4月12日 太田昭宏代表が都内で中国の温家宝首相と会談。日中両国の首脳の対話を願って来たことを語る。同日、池田大作創価学会名誉会長も温首相と会談。
- 10月16日 民主党の石井一議員が参議院予算委員会にて公明党と創価学会の関係を追及。
組織
- 最高議決機関は党大会で代表を選出し、活動方針、重要政策、綱領及び規約の改正、予算決算など重要案件を決定する。大会が開かれていない間は代表者会議が大会の権限を代行する。国会議員は両院議員総会を作る。党の最高執行機関は中央幹事会で、代表、副代表、幹事長を置く。代表以外の主要役員は代表が指名してから大会の承認を得ることになっており、より下級の役員は上からの指名によるので、規約上は代表の権限が強い。
- 「言論出版妨害事件」以降、党組織の一定の改革もなされ、中央幹部会を議決機関の中央委員会と執行機関の中央執行委員会への分離と党大会代議員の下部からの選出等が行われたが、依然として創価学会が強い指導権を持っていると見られる。
- 党本部は東京都新宿区南元町の公明会館にあり、各都道府県に県本部などを持つ。機関紙『公明新聞』を発行。(部数は公称80万部)。
人事
- 2年に一度開催される全国大会で、代議員によって公明党代表が選出されることになっているが、結党以来、委員長・代表などの交代に際に対立候補が出たことはこれまで一度もない[23]。選出された代表が幹事長、代表代行、副代表などを指名。党本部の役員その他の人事については、中央幹事会で決定・承認される。
- 創設者である池田大作はこれまで、党員にも、党の役員にもなったことはない[24]。
政策
憲法
- 創価学会の池田大作名誉会長が、1999年に提言した「首相公選制」を2001年の参議院選挙の公約することに決めかけていたが、内閣法制局の見解を確認すると憲法改正が必要ということを受け、護憲の看板を守り、公約にするのは見送られた[25]。
- 憲法改正論議について、党内には改正論と慎重論の2つがあり、結局党がまとめた案は自民党や民主党とは違い憲法9条は1項、2項とも堅持し、その上で第3項を加えるという「加憲」であった。
- 依然として党内では9条は一切変えず、その他の条文を変えるといった声も強い。これは創価学会の初代会長と2代目会長が治安維持法で逮捕され、初代会長が獄死した過去があり、戦前復古的な改憲には否定的に考える事情があるためとされる。
安全保障
- 公明党結成時の1964年においては「発展的解消」を主張。昭和40年代には「段階的解消」、「早期解消」を主張。「創共協定」締結直前の1974年1月の中央委員会では「即時解消」。「創共協定」が党内の反対を受けが空文化し始めた1975年10月には事実上の存続を認める「合意廃棄」と軟化し、1978年1月の第15回公明党大会で、日米安保、自衛隊、原子力発電を容認することを表明した[24]。
- イラク戦争では自衛隊イラク派遣に賛成し[26]、「反戦・平和」の姿勢を支持して来た公明党員からも論議を呼んだ。開戦から4年以上が経ち、侵攻の理由とされた大量破壊兵器は存在せず、テロ組織アルカイーダとフセイン政権が無関係とアメリカ自身の調査で証明されたにも関わらず、自民党同様、イラク戦争は(開戦当時の判断としては)正しかったとの姿勢を貫いている。
- 2007年3月、太田昭宏代表は憲法改正について「自民党の改正案は集団的自衛権の行使を認めることが裏にあるが、われわれは集団的自衛権を認めない」と強調した。
- アフガニスタンへの自衛隊の米軍支援を定めたテロ特措法の延長にも賛成の方針を貫いている。
- 安全保障政策では自民党と連立を組むようになって以降、政府・自民党の「右寄り」の方針に同調する事が多い。同じ与党であるから、ある程度の妥協は仕方ないとの意見もあるが、「平和の党」を自認する党としては矛盾した状態であると言われる。[27]。
治安
- 共謀罪法案成立に賛成の立場をとる。2006年5月19日、自民党と共に衆議院法務委員会で共謀罪法案を強行採決する姿勢を見せていたが、採決は見送られた。
- 2005年に韓国人への観光ビザ免除恒久化を実現し、現在は全ての中国人への観光ビザ免除恒久化を目指している。
外交
- 日韓関係の発展を目指しており、日本国が韓国と領有権問題で対立している竹島に関しては、軋轢を避けるため消極的な対応しか行っていないが、在日韓国・朝鮮人から要請されている在日コリアンへの参政権付与については、非常に積極的に推進をしている。[28]
- 日中善隣友好協力関係の発展を重視しており、日中関係は最も重要な2国間関係であるとしている[29]。日中国交回復における“橋渡し役”を果たしたと自負している。
- 北朝鮮の崩壊に対応するため『難民政策プロジェクトチーム』を発足させ、難民が日本に定住できるように検討を始している。
福祉
- 1999年 10月の自民党との連立政権参加以降、「児童手当」の制度拡充を推進。選挙のたびに児童手当増額を公約にしており、「福祉の党」としての実績をアピールする。
- 1999年、野党の立場で小渕内閣に「地域振興券」の発行を強く迫り、実現させる。
- 2003年 党のマニフェストで、少子高齢化が進んでも現役世代の平均収入の50%以上を保証する「年金100年安心プラン」を発表。
- 2004年 首都圏における女性専用車両導入を推進し、実現させた。
- 「年金100年安心プラン」を提唱していたが、年金支給漏れ問題の発覚などにより本当に「100年安心」と言えるのか懐疑的な意見も出てきている[30]。
行政
- 国と地方の公務員の1割削減や予算の重点化・効率化による公共事業費の縮減、国家公務員の天下り管理、退職金の受給制限などを党としては提案しているが、国土交通省大臣である冬柴鐵三は、独立行政法人の改革を推進する自民党の渡辺喜美行政改革担当と対立している。渡辺が所管法人の廃止・民営化などで協力を求めているのに対して、公明党は法人の民営化を拒否する「ゼロ回答」を行うことで、行政改革への反対を鮮明にしている。
- 「外国人参政権」を与えることに賛成。
- 公明党は参議院の「法務委員長」のポストを40年以上、東京都議会の「警察・消防委員会」のポストも40年以上に渡り独占している[31][32]。
税制
教育
- 教育基本法改正において、「愛国心」という言葉を盛り込むことに反対した。自民党案の「郷土と国を愛し」という文言に対し、「戦前の国粋主義を連想させる」などと反対し、「郷土と国を大切にし」との表現を主張した。
人権
雇用政策
- 新産業育成、規制改革による新規雇用創出。
選挙
- 連立を組む自民党との選挙協力で、自民党の候補者が自らの選挙区で、「比例は公明党へ」と 呼びかけるという選挙戦術を取るが、これには批判もある。
- 中選挙区制の復活を提唱。1999年の自民党・自由党との連立政権合意事項の中に中選挙区制復活の余地を残す文言が盛り込まれた[33]。
論議のある問題
創価学会との関係、政教分離問題
草創期から創価学会と一体となった活動から、憲法に定めた「政教分離原則」に反した“政教一致”だという批判があり、1970年以降の制度的分離を行なって以降も、同様な批判は根強くある。
- 1959年の参議院選挙の際に池田大作は「最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは必然でなくてはならぬ。」、「(日蓮)大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには関所ともいうべき、どうしても通らねばならないのが創価学会の選挙なのでございます」と述べており、[34]1955年には「富士の山麓に国立戒壇を設け、日蓮正宗を国教にすることだ。そのためには二十年後には国会議員の過半数を占めなければならない。」(『聖教新聞』1955年)と述べている[35]。
- 政教分離を明言した1970年5月3日の池田会長(当時)の 講演では、「創価学会の役職を兼任している公明党議員では創価学会の役職は段階的にはずすなど、創価学会と公明党を制度の上で明確に分離していく」、「会員個人の政党支持について、会員の自由意思には、全く干渉しない」、「選挙活動は党組織の仕事とし、創価学会は支持団体として『地域ごとの応援』をする」ことなどの方針を明らかにした。同年の党大会では政教一致を意味すると見られてきた「王仏冥合」という言葉を党綱領から削除した。
- 公明党の元委員長の竹入義勝は1998年9月、『朝日新聞』に連載した回顧録、『秘話・55年体制のはざまで』において、「公明党・創価学会の関係は環状線で互いに結ばれているのではなくて、一方的に発射される放射線関係でしかなかったように思う。」、「委員長を引き受けるときから人事権は(創価)学会にあると、明確にされていた」、「公明党は財政、組織の上で創価学会に従属していた。」などと述べた[8]。この連載の直後、機関紙「公明新聞」で『竹入義勝の謀略と欺瞞』と題する連載で反論と竹入批判を始めた[8]。
- 1993年、細川内閣発足前日に池田名誉会長が公明党が大臣ポストを獲得した[36]ような発言をしたことで、池田名誉会長が与党の人事にまで影響力を及ぼしているのではと国会で問題となる[37][38][13]。
- 羽田孜連立内閣で総務庁長官を務めていた公明党委員長の石田幸四郎は国会で、公明党の最高人事は池田名誉会長の意向、指示で決まるのかとの質問に、「公明党の人事は公明党でやっており、池田からの指示はない」、「人事、政策というのは党大会を通して決める」と答弁した[39]。
- 内閣法制局は「政教分離原則は宗教団体が政治的活動をすることを規制しているものではない」旨の答弁をしている[40]。
- 選挙期間になると、創価学会信者が組織的に選挙活動に動員され、創価学会の関連施設が活用されることに対し、国会で幾度か問題視されたことがある[41]。
- 1999年7月12日、自民党官房長官(当時)、野中広務が「公明党は政教分離した政党として脱皮しつつある」と記者会見で発言[24]。
- 創価学会の池田大作名誉会長は、マハトマ・ガンディーらなどの言葉を引用し、「政治と宗教が切り離されてしまえば、政治は壊れていく。」という趣旨の言葉を、創価学園の卒業式で発言している。
フェミニズム男女共同参画勢力との関係
公明党は近年、フェミニズム男女参画勢力との関係を強めている。内閣府男女共同参画局や各自治体の男女共同参画課の施策に対して、巨額の予算(国政だけで10兆円を超える)を獲得することに主導的な役割を果たしており、連立政権を組む自民党に対し何らかの譲歩をした場合、その見返りとして、多くの場合真っ先にフェミニズム関連予算の増額を要求している。また政策においても内閣府男女共同参画局や各省庁からの出向メンバーによるフェミニズム関連の政策を強力に後押ししている。さらに、人権擁護法を同和関係者やフェミニズム勢力と合同起草した経緯があり、その法案成立に向けて画策している。
その他の問題
- 2000年夏、東京都内の公明党所属の区議会議員が区議会において、公明党と創価学会の批判を載せている雑誌の排除を要求していたことが明らかになり問題となる。大田区議会では2001年3月13日、「週刊誌は人のことを中傷している」、「私は不愉快だから何とかしてもらいたい」として「『週刊新潮』、『週刊文春』、『文藝春秋』を大田区の全図書館から排除してもらいたい」と要求した[15]。中央区では、同年3月の区議会で、区立図書館に公明党と創価学会を批判した本が多数あることに言及し、図書の選定を問題にし、「図書館の職員の適切な人事異動をしていただきたい」と要求した。4年前の1997年3月7日にも別の公明党の区議が区議会で「図書館、区の施設、待合室、ロビーなどに置いてある暴力的、人権侵害の週刊誌はき然として排斥するべきだ」と求め、中央区は出版社系雑誌の購入を止め、雑誌コーナーを失くしていた。[42][43][44]
エピソード
- “公明党”という党名は池田大作が愛読していた『三国志』に出てくる諸葛孔明の「孔明」の音にちなんでいる。当時、自治省は違反をしないクリーンな選挙を「公明選挙」という言葉で呼びかけていたが、公明党の結成によりこの言葉を使えなくなった[8]。
- 2001年-参議院選挙の時、CMで「そうはイカンザキ」という言葉(“そうは行かん”と党の代表であった“神崎武法”を併せた駄洒落)を使いアピールしたことで有名になった。
- 2006年-教育基本法「改正」法案審議の時に内閣府・文部科学省によるタウンミーティングにおける、やらせ質問が発覚したが、かつては「そうはイカンザキ」というスローガンを掲げた公明党は最後まで「それはイカン」という声が上がらなかった。
- 2007年春-公明党新潟県連が日本共産党を批判する新聞折り込み広告を配布した。「公明党の統一選重点政策」という欄のトピックスという所に、「北朝鮮を地上の楽園と大賛美したのは共産党。拉致問題では言い逃れをした」、「共産党が単独与党で市長も共産党員の東京都狛江市の財政は首都圏ワースト1」などと批判した。
- 党のホームページにおける「選挙速報」では、日本共産党の議席減を必ず伝える。まず公明党候補者の当選を伝えた後、共産党の議席が増加または現状維持の場合は何も触れずに前回選挙時との各党派別当選者を単に伝えるが、共産党の議席が減少した場合は「共産は1議席減らした。」「共産は議席を失った。」という表現が必ずと言っていいほど盛り込まれる。
- 公明党と共産党はいわゆる「生活者」重視を共に標榜しているためか選挙の際には必ずといってよいほど批判の応酬が行われる。公明党は共産党を「反対だけが実績」「実績横取り」といった言葉で批判する。
党史
結成前
- 4月 第3回統一地方選挙(23日・30日)で創価学会推薦候補が当選。
- 11月 公明政治連盟結成。
- 7月3日 参議院に院内会派、「公明」を結成。
結成後
- 11月17日 公明党結成。
- 衆議院に初進出、25議席を獲得。
- 12月27日 新進党解散。
公明党中央幹事会・執行部役員表
| 代表 | 代表代行 | 副代表 | 幹事長 | 政務調査 会長 |
国会対策 委員長 |
参議院 議員会長 |
参議院 幹事長 |
常任顧問 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 太田昭宏 | 浜四津敏子 | 坂口力、草川昭三 井上義久、東順治 |
北側一雄 | 斉藤鉄夫 | 漆原良夫 | 白浜一良 | 木庭健太郎 | 神崎武法、冬柴鐵三 |
歴代の公明党執行部役員表
第1期(公明党中央執行委員会)
- 1964年11月17日 ‐ 1994年12月9日
| 委員長 | 副委員長 | 書記長 | 政策審議 会長 |
国会対策 委員長 |
参議院 議員団長 |
最高顧問 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 原島宏治 | 北条浩 | 龍年光 | 小平芳平 | 白木義一郎 | 辻武寿 | |
| 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 二宮文造 | 〃 | |
| 〃 | 辻武寿 | 北条浩 | 〃 | 〃 | 〃 | |
| 辻武寿 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | ||
| 〃 | 〃 | 鈴木一弘 | 〃 | 渋谷邦彦 | ||
| 竹入義勝 | 白木義一郎、和泉覚 北条浩 |
矢野絢也 | 〃 | 浅井美幸 | 二宮文造 | |
| 〃 | 〃 | 〃 | 正木良明 | 渡部一郎 | 〃 | |
| 〃 | 二宮文造、浅井美幸 多田省吾 |
〃 | 〃 | 大久保直彦 | 多田省吾 | |
| 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 鈴木一弘 | |
| 〃 | 二宮文造、浅井美幸 多田省吾、鈴木一弘 |
〃 | 〃 | 権藤恒夫 | 〃 | |
| 矢野絢也 | 石田幸四郎、浅井美幸 多田省吾、鈴木一弘 |
大久保直彦 | 坂口力 | 市川雄一 | 三木忠雄 | 竹入義勝 |
| 石田幸四郎 | 伏木和雄、渡部一郎 長田武士 |
市川雄一 | 〃 | 坂井弘一 | 黒柳明 | 竹入義勝 、矢野絢也 |
| 〃 | 三木忠雄、渡部一郎 長田武士 |
〃 | 神崎武法 | 〃 | 〃 | 〃 |
| 〃 | 三木忠雄、渡部一郎 権藤恒夫 |
〃 | 二見伸明 | 神崎武法 | 〃 | 〃 |
| 〃 | 三木忠雄、黒柳明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 〃 | 〃 | 大久保直彦 | 〃 |
| 〃 | 貝沼次郎、黒柳明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 日笠勝之 | 森本晃司 | 〃 | |
| 〃 | 坂井弘一、黒柳明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 〃 | 〃 | 鶴岡洋 | |
| 〃 | 矢追秀彦、二見伸明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 〃 | 神崎武法 | 〃 |
第2期(公明党中央幹事会)
- 1998年11月7日 ‐
| 代表 | 代表代行 | 副代表 | 幹事長 | 政務調査 会長 |
国会対策 委員長 |
参議院 議員会長 |
最高顧問 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 神崎武法 | 浜四津敏子 | 市川雄一、近江巳記夫 | 冬柴鐵三 | 坂口力 | 草川昭三 | 鶴岡洋 | 藤井富雄 |
| 〃 | 〃 | 坂口力、続訓弘 | 〃 | 北側一雄 | 太田昭宏 | 〃 | 〃 |
| 〃 | 〃 | 坂口力、鶴岡洋 | 〃 | 〃 | 東順治 | 草川昭三 | 〃 |
| 〃 | 〃 | 坂口力、草川昭三 | 〃 | 井上義久 | 〃 | 〃 | 〃 |
| 太田昭宏 | 〃 | 坂口力、草川昭三 東順治、井上義久 |
北側一雄 | 斉藤鉄夫 | 漆原良夫 | 〃 | 神崎武法、冬柴鐵三 |
公明党関連政党の執行部役員表
公明新党
| 代表 |
|---|
| 石田幸四郎 |
公明中央幹事会
| 代表 | 副代表 | 幹事長 | 政策審議会長 | 国会対策 委員長 |
参議院 議員会長 |
常任顧問 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 藤井富雄 | 橋本辰二郎、柳井伝八 笠間肇、土師進 |
渋谷文久 | 大木田守 | 鶴岡洋 | 大久保直彦 | |
| 〃 | 桜井良之助、浜四津敏子 笠間肇 、 土師進 |
鶴岡洋 | 及川順郎 | 白浜一良 | 〃 | |
| 浜四津敏子 | 大久保直彦 | 〃 | 続訓弘 | 木庭健太郎 | 〃 | 藤井富雄 |
| 〃 | 桜井良之助、続訓弘 | 白浜一良 | 日笠勝之 | 〃 | 鶴岡洋 | 〃 |
新党平和中央幹事会
| 代表 | 副代表 | 幹事長 | 政務調査会長 | 国会対策 委員長 |
名誉顧問 |
|---|---|---|---|---|---|
| 神崎武法 | 市川雄一、近江巳記夫 | 冬柴鐵三 | 坂口力 | 草川昭三 | 石田幸四郎 |
黎明クラブ
| 代表 | 幹事長 | 政務調査会長 | 国会対策委員長 |
|---|---|---|---|
| 白浜一良 | 木庭健太郎 |
公明党の政権ポスト
()内の肩書きは、入閣前の党内ポスト。
- 閣僚
- 第2次森喜朗内閣
- 閣僚
- 総務庁長官・続訓弘
- 政務次官
- 法務政務次官・上田勇
- 外務政務次官・荒木清寛
- 厚生政務次官・福島豊
- 環境政務次官・河合正智
- 沖縄開発政務次官・白保台一
- 閣僚
- 第2次森喜朗内閣改造内閣(中央省庁再編前)
- 閣僚
- 厚生兼労働大臣・坂口力(中央幹事会副代表)
- 総括政務次官
- 外務総括政務次官・荒木清寛
- 厚生総括政務次官・桝屋啓悟
- 自治兼総務総括政務次官・遠藤和良
- 閣僚
- 第1次小泉純一郎内閣第2次改造内閣
- 閣僚
- 厚生労働大臣・坂口力
- 副大臣
- 総務副大臣・若松謙維-田端正広【2003年9月30日】
- 財務副大臣・谷口隆義-石井啓一【2003年9月30日】
- 環境副大臣・弘友和夫-加藤修一【2003年9月30日】
- 大臣政務官
- 文部科学大臣政務官・池坊保子
- 農林水産大臣政務官・渡辺孝男
- 国土交通大臣政務官・高木陽介
- 閣僚
- 第2次小泉純一郎内閣
- 閣僚
- 厚生労働大臣・坂口力
- 副大臣
- 総務副大臣・田端正広
- 財務副大臣・石井啓一
- 環境副大臣・加藤修一
- 大臣政務官
- 農林水産大臣政務官・福本潤一
- 経済産業大臣政務官・江田康幸
- 国土交通大臣政務官・佐藤茂樹
- 閣僚
- 第2次小泉純一郎改造内閣・第3次小泉純一郎内閣
- 閣僚
- 国土交通大臣・北側一雄(政務調査会長)
- 副大臣
- 法務副大臣・富田茂之【2005年9月23日】
- 財務副大臣・上田勇
- 厚生労働副大臣・西博義
- 環境副大臣・高野博師
- 大臣政務官
- 総務大臣政務官・山本保
- 法務大臣政務官・富田茂之【2005年9月23日】
- 農林水産大臣政務官・大口善徳
- 閣僚
- 第3次小泉純一郎内閣改造内閣
- 閣僚
- 国土交通大臣・北側一雄(政務調査会長)
- 副大臣
- 財務副大臣・赤羽一嘉
- 厚生労働副大臣・赤松正雄
- 経済産業副大臣・松あきら
- 環境副大臣・江田康幸
- 大臣政務官
- 総務大臣政務官・古屋範子
- 外務大臣政務官・遠山清彦
- 閣僚
- 安倍晋三内閣
- 閣僚
- 国土交通大臣・冬柴鐵三(中央幹事会幹事長)
- 副大臣
- 財務副大臣・富田茂之
- 文部科学副大臣・池坊靖子
- 厚生労働副大臣・石田祝稔
- 政務官
- 総務大臣政務官・谷口和史
- 外務大臣政務官・浜田昌良
- 経済産業大臣政務官・高木美智代
- 閣僚
党勢の推移
衆議院
| 選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
|---|---|---|---|
| (結党時) | 0/- | 467 | |
| 第31回総選挙 | ○25/32 | 486 | |
| 第32回総選挙 | ○47/76 | 486 | |
| 第33回総選挙 | ●29/59 | 491 | |
| 第34回総選挙 | ○55/84 | 511 | 追加公認+1 |
| 第35回総選挙 | ○57/64 | 511 | 追加公認+1 |
| 第36回総選挙 | ●33/64 | 511 | 追加公認+1 |
| 第37回総選挙 | ○58/59 | 511 | 追加公認+1 |
| 第38回総選挙 | ●56/61 | 512 | 追加公認+1 |
| 第39回総選挙 | ●45/58 | 512 | 追加公認+1 |
